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宮地文一(画家 宮地志行の父)の記録

宮地文一(みやちぶんいち)は、1865年(慶応元年)10月25日、土岐郡日吉村で誕生、
1936年(昭和11年)10月22日に没している。71歳。
江戸時代から、明治、大正、昭和の四つの時代を生きてきた。
妻は、けい(旧姓、田口)(明治6年1873年5月7日-昭和36年1961年4月14日)岐阜県可児市今渡。

田口家について
十一屋の屋号を持ち、古くから歴史書に名が出て来る地主。
当時、土地が30町歩あり、けいが嫁入りした時には
使用人を一人連れて来たほどの豪華なものだった。
(1町歩は約1ha=100a=10000m2)(10反が1町歩)
戦後の農地改革で土地は1反300円(現在価値で約1万〜2万円)で没収された。

<宮地文一の先祖>

文一の父は宮地兵次郎寛朋(1838-1910)で
日吉村三浦弥五八の五男であり、養子として入籍している。
文一の母は日吉村南垣外の柘植河内守(禰宜)長女津宇(つう)(1843-1925)。
宮地兵次郎は、明治14年(1881年)日吉村戸長となる。
----->兵次郎・文一・志行の写真はこちら

宮地文一・宮地兵次郎が趣味で集めた美術品や骨董品は、--->こちら

兵次郎の父は、宮地市兵衛(1816-1883)、江戸時代に半原村の庄屋。
明治6年美濃国土岐郡半原村の戸長。
兵次郎の母は、ふで(1821-1898)

さらにその前をたどれば
宮地市蔵 安政二年十一月亡(1855年)
宮地求馬 天保七年9月亡(1836年)
宮地金松 文化十四年七月十八日亡(1817年)
宮地安之S 天明五年七月亡(1785年)
宮地隼人 宝暦十三年九月亡(1763年)
宮地九郎右衛門 寛保三年三月亡(1743年)
宮地九郎左衛門 元文元年十月亡(1736年)
宮地市之S 享保八年五月亡(1723年)
(本家十一代宮地九郎左衛門次男宮地市之S、とあり、
この時に分家している。一代後の九郎左衛門とは別)

<宮地文一の記録>

幼小より地元の寺子屋師匠土屋理助のもとで学ぶ。
明治4年(1871年)に寺子屋が閉じられる最後の寺子の一人だった。)(6歳)
理助の長男広丸が書き残した寺子屋名簿の最後に文一の名が記してある。

新しい学制が布かれて日吉村半原に勧学義校が開校すると同時に入学。(9歳)
その時の先生は南垣外の寺子屋師匠大江密成の子小川玄寿。彼は明治11年6月まで務めた後、
教員を目指して師範研修学校岩村伝習所に入り卒業と同時に日吉学校に務めた。
当時は半年毎に進級試験があって合格するとどんどん進級できた。
文一は生来怜悧で学校を優等で卒業(4年制)したが、
勉強を続けようにも歳が若い為に進級の道もなく独学を始めたが、

明治13年(1880年)12月半原学校(この時は校名が変わっていた)の4代目の先生木村甚之助が辞めたので、
明治14年1月から母校半原学校に教員として務めた。(17歳)
半原学校には明治23年に書かれた沿革誌があり、
そこに先生の記録があり第五代宮地文一の名が記されている。
明治14年1月から明治15年3月まで当校訓導拝命。
明治15年には18歳になり受験資格が出来たので3月に学校を辞めて師範研修学校に入学、
明治18年6月同校高等師範学科(高等科教員資格)を卒業、

明治18年(1885年)8月、郷里の日吉学校校長を拝命、初代校長となった。(21歳)
(明治18年8月〜明治21年12月・初代校長)
日吉学校には明治21年12月まで務め、その後可児郡御嵩小学校校長、他を歴任。
明治42年(1909年)再度土岐郡日吉尋常高等小学校長。(明治42年3月〜大正9年4月・七代校長)
校長時代の写真は、こちら
大正9年(1920年)4月退職。(55歳)
退職するまで郷土の子弟の教育に当たり、大きな感化を与えた。

(「百十年の歩み 閉校記念誌 昭和57年12月 瑞浪市立日吉第一小学校」より抜粋)
明治十年には新たに学校令が公布され、小学校を尋常科四年、高等科四年にわけ、尋常科四年は義務教育として
必ず就学させなければならなくなった。又一学級生徒数は尋常小学校は八十名以下、高等科は六十名以下とされた。
・・・・・中略・・・・・明治二十一年の修業証書を見ると・・・・・中略・・・・・
校印は、「岐阜県美濃国土岐郡日吉尋常小学校印(現存)と刻まれており、「日吉小学校長宮地文一」と書かれて、
その下には宮地文一と刻まれた校長印が捺されてある。・・・・・中略・・・・・
校長宮地文一先生は半原の出身、明治十八年に岐阜県師範学校高等師範科を卒業(後の小本正資格であるが
当時は有資格者は全県でわずかに三十余名しかなかった。)して、すぐに日吉学校に赴任、新進気鋭の
初代校長として本校の基礎を作って下さった先生である。(p10記載)


在任中、学校沿革誌を整理したものが今日に残っている、
同校は明治25年(1892年)火災に遭って消失してしまったが、
この沿革誌は具体的に記録されており、貴重な資料になっている。

大正11年(1922年)5月27日、日吉村長。大正14年5月28日辞任。
昭和4年(1929年)村会議員。
昭和6年、日吉信用組合組合長。昭和7年も再任。
昭和11年(1936年)10月22日(23日との記録もあり詳細不明)、死去。

半原に昔、「青年矯風会」と言うのがあって、倶楽部の門柱に大きな木札が懸っていたが、
この前身である「青年矯風社」を創ったのは文一で、青少年教化にも大きな貢献をした。
日吉神社の拝殿正面の由緒書(天保二年再建百年記念式祭)は文一の揮毫(きごう)したもの。
(<宮地文一の記録>の項、以上は、土屋千春著、「半原物語」-51-半原人物史(4)より引用しました。)

<宮地文一と化石>

明治30年(1897年)代に、御嵩小学校の教員をしていた記録があり、
このころ、化石の調査も熱心に行っていた。

大正12年(1923年)岐阜縣内務部発行の「岐阜縣史績名勝天然紀念物調査報告」(原文のまま)には
(38ページ)
本調査に際し各町村役場員、小学校教員、〜(中略)〜、日吉村宮地文一、東濃中学校長八木繁四郎竝に
化石発見者の多大なる助力を得たり。

(46ページ)犀(サイ)の化石について
明治31年(1898年)頃、〜(中略)〜、
土岐郡日吉村宮地文一(当時御嵩小学校教員)は可児郡平牧村二野の神割より
動物頭骨の化石を掘出したるが、下顎は宮地之を取り其の後(明治32年(1899年)ならん)
東京帝國大学に寄贈(吉原博士の手を経てならん)し、〜(中略)〜
吉原博士は地質雑誌第69号中に羽崎に於て
印度(ジバリック)産に酷似せる犀類の下顎歯を発見せりと
記載せり是恐らくは宮地が東京帝國大学に寄贈せりと云へる前記頭骨の下顎と同一のものなるべし、
〜後略〜

との記載がある。
なお、詳細は
Web情報 https://play.google.com/store/books/details?id=KWuKJHy7jK8C

その後
小学校校長、のち日吉村長となる。(詳細は上記)
日吉村組合長歴任。

 
組合長退職時に記念贈呈された茶箪笥


文一が収集した、木の根で造った龍(1850mm長)


宮地文一


「瑞浪のふるさと人物史(瑞浪市退職校長会発行1995年)」より引用させていただきました。


宮地文一が受章した勲八等瑞宝章


安東義良(あんどうよしろう 1897-1986)からの葉書(9月15日、
消印の年号は“1”?と読めるか。
安東義良は、東京帝国大学卒業・パリ大学卒業・外務省条約局長・
外務省欧亜局長・衆議院議員(岐阜2区)・拓殖大学総長・駐ブラジル大使など歴任。
弁護士。

 
志行から文一宛の手紙 

 
文一から志行宛の手紙





日吉神社の拝殿正面の由緒書(天保二年再建百年記念式祭)。宮地文一書。


昭和10年(1935年)3月、半原敬老会・婦人会
宮地文一は最後列向かって左から二人目。撮影場所不明。
撮影した写真館は右下に“中央線釜戸駅前Daishi?水?”のゴム印がある。
前列右は宮地はん(文一の姉)
他のメンバーで判明しているのは、前から3列目左端の土屋正夫、
同じく3列目左から3人目の土屋忠吉、か?



宮地美一(宮地文一の弟)の記録

文一の弟に、宮地美一(みやちみいち)がいた。
(明治12年1879年9月18日生〜昭和36年1961年11月18日没、享年83歳)
  妻は信子(能婦)(昭和38年1963年1月7日没、享年90歳)
宮地美一は東京帝国大学の英文科を卒業している。
晩年の宮地美一とは筆者もよく会っていた。筆(書道)は一流であった。
大学卒業後は東京の千駄ヶ谷に住んでいたが戦争の空襲で家を焼かれ日吉村に帰り住みついた。
千駄ヶ谷の宮地美一の家には、画家宮地志行が同居して絵を描いていた。
住所は、東京府下千駄ヶ谷549番地、と書かれているもの(一部)や
渋谷区千駄ヶ谷町3の549、と書かれた郵便物(大多数)がある。
美一が住んでいた千駄ヶ谷の家の通り一つ向いのすぐ近くに後述の熊崎の家があった。
先に住んでいた美一の紹介で熊崎家が引っ越して来たようだ。
現在その土地は千駄ヶ谷駅前の飲食店街となっていて、当時の面影は全く無い。


宮地美一の書(書号は写真のとおり)
春眠不覺曉 處處聞啼鳥 夜来風雨聲 花落知多少 孟浩然
(春眠暁を覚えず  処処啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落つること知んぬ多少ぞ)


宮地美一は京箪笥まで作ってしまう器用者だった
(猪野氏所蔵・2014/12/13現状・土屋撮影)


1961年、宮地志行展の時の写真

眼鏡の翁が美一で右端が宮地志行の妻光枝


右端に写り一人おいて光枝


左が美一

 
美一が景樹(志行)に宛てた絵葉書



熊崎玉樹の記録

須藤次雄(須藤雄鳳堂)からの手紙(昭和11年5月12日)
熊崎玉樹(たまき)は親戚。
(文一の子で宮地志行の兄妹の「ふで」の嫁ぎ先が熊崎。ふでの子が玉樹)。
写真は昭和11年5月12日、東京日本橋の須藤雄鳳堂からの手紙。
熊崎家は美一の家から数十mしか離れていなかった。
天皇陛下(現在の平成天皇)は、昭和28年(1953年)19歳(皇太子)のときに、昭和天皇の名代として、
ロンドンで行われたエリザベス女王の戴冠式(たいかんしき)に出席された。
玉樹は朝日新聞社写真部に勤め、この時に同行して天皇(皇太子)の写真を撮り、
陛下とお話しすることも出来たという。
(この時の朝日新聞社の記事)
天皇陛下は皇太子時代の1953年、昭和天皇の名代としてエリザベス女王の戴冠式に出席。
その前後に、米国をはじめ、フランス、イタリアなど15カ国を訪れた。
3月に船で出発し、帰国は10月。半年以上の長旅になった。
朝日新聞社のカメラマン熊崎玉樹特派員はそのほとんどに同行。
19歳のプリンスの姿を写真に収めた。

 
エリザベス女王の戴冠式でロンドンから熊崎玉樹が宮地君枝(光枝)に宛てた絵葉書

熊崎玉樹のロンドン時代については
安部譲二著「あんぽんたんな日々」第205回「モノクロだった頃」
http://www.abegeorge.net/essay/index.html
に掲載されている。
安部譲二氏は2019年9月2日に亡くなられた。82歳。ご冥福を祈る。


 
景樹(志行)が、ふで(嫁ぎ前で宮地姓)宛に出した手紙

なお、熊崎玉樹は1994年の宮地志行展会場に来た(熊崎家三名にて)。



渡辺徳助(宮地文一の妹千代の夫)の記録

「瑞浪のふるさと人物史(瑞浪市退職校長会発行1995年)」より
引用させていただきました。



宮地兵次郎(宮地文一の父)の記録(1838-1910)
宮地兵次郎は、別に新規ホームページを開設→こちら

宮地兵次郎は、明治14年(1881年)日吉村戸長となる。
(白倉の小栗忠左衛門が大正8年に出した日吉郷土誌に依る)


明治27年3月9日 宮内大臣子爵土方久元(後に爵位は伯爵となる)から
宮地兵次郎に贈られた感謝状
1894年(明治27年)3月9日、明治天皇「大婚二十五年祝典」が催された。
この時に宮地兵次郎は祝いの品を贈っている。
狩野洞春(1747‐1797)筆の「鶴の図」雙幅(二つで一組の掛軸)。
(明治天皇は)御満足被 思召(おぼしめされ)候事、とある。


宮内大臣からの感謝状の後に、
岐阜県土岐郡長従七位(後に従六位)水谷弓夫から贈られた雙寉詞。
1894年12月付。
雙寉(読み=そうかく)詞。雙は双、寉は鶴。文末の稾は稿。
甲午(きのえうま)は干支(かんし、えと)の1つで60年周期、これは1894年にあたる。
宮地兵次郎が拝領した宮内大臣の礼状は当家のみならず土岐郡にとっても光栄なことで喜ばしい
という内容。

また、宮地兵次郎は中山道の中街道開削についても尽力している。
このことについては、このベージ最下段に資料を添付した
反対派の脅迫に合い、家を焼き打ちされそうになったエピソードが書かれている。
(瑞浪市教育委員会の資料)



宮地市兵衛(兵次郎の父)の記録

市兵衛は美濃国土岐郡半原村の戸長、半原村の庄屋であった。

美濃国土岐郡半原村掟米総計帳(明治6年/1873年酉1月)
 
“美濃国土岐郡半原村戸長 宮地市兵衛”の記載

作恐御尋ニ付御達奉申し候事(慶応2年/1866年卯6月)
 
“半原村庄屋 市兵衛”の記載


*******************************************

中山道の中街道の開削について

以下
瑞浪市教育委員会発行 資料 瑞浪市史 近代編 交通・鉱工業 平成21年3月
より抜粋・転記しました。

(二)中街道
中切〜半原〜宿〜本郷〜常柄〜次月


前記の『晴雨日記』から中街道開削の様子を拾ってみると、
次のようになっている。

明治十四年五月四日 御嵩へ新道之開く義、井尻より三佐野迄は四月
十一日に縄張り致し夫より取り掛かり二十日迄に出来致し候由、日吉、
半原もこの節取掛り候様子に付、釜戸村集会議の上今日取極致也
  二十日半原村新海道今日より道作り始る也
六月十四日新道作り始る也、中切より入口
八月 三日 二日より御嵩新道作り始る也 旧陣屋、藪の中より作り
      始め半原堺(境)迄作る也 五月二日、三日、四日、五日、
      六日、七日〆六日の間 起工人 起工人長 加勢悦喜 宿
      溝口喜一 公文 河合玉三郎、中切・桜井正次
<以上p17>

明治十五年七月四日 御嵩駅へ通行新道開通式

この中街道の開削にあたっては、『中街道開削之記』(小川鈴
一ノート)として残されているように、一触即発の危険な対立
を含みながら進められた。

中街道開削の記

御維新以来社会の進運と共に交通の機関は益々備わり海に汽船を浮べ
て海運を計り陸には汽車を設け以て萬般の運輸を掌る 其他郵便電信あ
りて以て書信の往復を便にし山岳を貫いて道路を開き橋梁を架して大河
を渡り如何なる山間僻地も漸次車声の麟々たるを聞くに至れり(中略)
美濃国を東西に貫通する中仙道の中可児郡井尻村より恵那郡大井駅に達
する数里の間は山岳起伏し、(中略)所謂十三峠の嶮道にして本道中有
名の難関なれば到底開明の今日に用ゆるの道路にあらざるなり、弦に於
てや、当該官庁に於も本邦中有数の国道にして斯くの如き嶮路あるは時
世の進化に阿はざるものなしと、時は明治十四年二月十四日即吾岐阜県
庁の土木課長木村直実を遣わし属官四・五名をして之に随行せしめ先可
児郡を説せしむ 県官等命を奉じて直に出張り忽ち沿道を承服したる後
御嵩の豪家野呂萬次郎其地郡中の有力数輩を率いて釜戸村に来り 同所
の旅舎土岐屋治郎平方に宿泊して沿道中の大部分たる日吉村戸長宮地兵
次郎氏及び柄石・本郷・南垣外・宿・半原各組の重立たる人民を召還し

之を諭すに新道開設の事を以てす 即いわく 可児郡御嵩村の中井尻よ
り土岐郡釜戸村に至る数里の間は往古鎌倉街道の道筋にして即古くの国
道たり 慶長以来世は徳川の世に移り而事社会の変遷と共に此中の街道
も亦其余勢を蒙り是を変換して今の大漱・細久手の二駅を設けたりと雖
も此道たるや已に世人の知る如く坂路甚だ多きを以て連も今日の国道に
適せず 依て此間を往古の鎌倉街道に従い再び道路を開設して以て交通
の利便を計らんと欲し県庁は吾等吏員を遣わしたるなり 沿道の人民た
るもの宜しく此主旨を奉載し速に新道の開設を出願し以て此は天下の公
益を資し此は以て地方の開進を計るべしとの意を示せり 是に於てや召
喚を受けたるの名々は一同其旨を組々へ伝えると同時に戸長は全村へ協
議をなしたる処日吉村北部の七組は凡て一体に不服を唱え 殊に細久手
駅は之が主唱となって大に之に反抗し 昼夜役場へ押寄せて非常に拒
絶を主張し一方に於ては直に郡衙に向て哀情を訴願し中々容易に開墾な
さしめまじきの景勢にて遂に戸長宮地兵次郎氏の居宅を焼き払う等の落
書を為して充分脅嚇の威を示し 其外種々不穏の挙動を以て極力之を
妨害を力めしかば其筋に於ても捨置き難く 遂に巡査を役場へ派出して
其年二月より四月下旬に至る殆ど六十余日間昼夜警戒を怠らざるの有様
にて事態頗る騒憂を極めたり 何分慶長以来殆ど三百有余年東西交通の
要路なれば人馬の往来随て繁く沿道の宿駅は皆之に依て衣食したるもの
なり 然るを一朝之を廃道となすに於ては細久手全駅の死活に関するの
問題にして之を否むは一応理なきに非ずと雖も諺に所謂小の虫を殺して
大の虫を助くると云う事あり 今や交通頻繁の時世に当て掌大の細久手
<以上p18>


人民を救うが為に天下幾多の公益を捨つるは理に於て然る可らずとなし
 戸長宮地兵次郎氏は有志の人々と共に前記不穏の挙動あるにも係わら
ず奮って一身を犠牲に供し以て之が成功を期し 明治十四年三月下旬よ
り本郷組安藤政助 小栗鉾三郎 半原組村瀬健二等の有志に命じ百難を
排し萬苦を忍び遂に開設の願書を認め郡役所を経て県庁に差出さしめた
り。(後略)
(「小川鈴一氏ノート」)

このように、中街道の開削は、細久手・大漱の両宿をはじめ
中山道沿道の人々にとって死活問題であった。そのため、この
影響を受ける村々では、関係役所に哀願したり、戸長宅を焼き
払うぞとばかり相手の村を威嚇したりして必死にこれを食い止
めようとしたが、徒歩や乗馬による通行は過去のものとして、
時代にあった道の必要性を説かれ、ついにこの案を飲むにい
たっている。
こうして、明治十五年(一八八二)五月、道路延長およそ
一六キロメートル、総工費七五八四円四〇銭六厘で完成した。
<以上p19>

中街道開設総計表 明治14年4月13日(宮地家保存)
 当時の戸数・人口・買上代価など書かれており、貴重な資料である。






なお、もうひとつ、重要な史実がある。

!!ウォルター・ウェストンが宮地兵次郎の家の前を通っていた!!

宮地兵次郎が中心になって開削した中山道の中街道は、あの有名な登山家の
ウォルター・ウェストンが通っている。(恵那山登山の途中にて)

ウェストンの恵那山登山については、こちら。

中街道の開削完成が1882年、ウェストンが通過したのが1893年である。
宮地兵次郎の家は、以下に述べられている
半原峠のすぐ近くの中山道・中街道の道路沿いにある。

何という歴史の巡り合わせか。
宮地兵次郎は戸長であったから、外国人の通過は知っていたと思われる。
しかしその資料が今となっては残っていないのが残念だ。

以下、「ウェストンの恵那登山と天竜川下り」 川村宏氏著 2004年10月1日発行
から記述の一部を抜粋させていただく。
資料として使わせて頂いたことに、川村宏氏に深く感謝申し上げます。

この書は現在販売在庫は無く、古本としても出ていない。
松本市図書館の、O氏の尽力により某図書館より見つけ出していただいた。感謝である。

参考までに、従来からの道(細久手、大漱を通る)を中山道の上街道と言う。

「ウェストンの恵那登山と天竜川下り」より

(p11)
-(前略)- 「伏見(御嵩町)で再
び中山道に戻った一行は御嵩を抜けて一路東へと辿った。中山道は井尻(御嵩町)か
ら東北東へ細久手、大漱を通り大井(恵那市)へと向かうが、ウェストンらは明治
15年(1882)に改修された中街道へ入った。

4.中街道と柄石峠茶屋の化石

「井尻で我々は再び中山道から離れた。中山道に沿ってやや右の方へ別れて行き、
3里半先の釜戸まで延びている新しい道で、下街道に通じていて結局は大井で中山道
に合流するのである。 (中略) 途中で2つの峠を越えねばならなかった。最初は柄石
峠で、その西側の麓の橋本屋という宿で昼食のため休んだ。宿のとても親切な応対は、
もっと休んでいたい気分にさせてくれた。」(『JWM紙』)
井尻から中街道で次月(御嵩町)に着き、ここの橋本屋で昼食を摂つた。鬼岩橋の
袂にあるところがら橋本屋と名付けられた宿の建物は今もその場所にある。
-(中略)-
(p12)

この中街道は2つの峠が冬場の難所だったようで、明治35年頃には次月から先が今
の国道21号線に当たる新道に切り替わっている。ウェストンらは鬼岩橋を渡り、現在
の鬼岩公園の南側を抜けて瑞浪市域の柄石峠、本郷、半原峠を越え、釜戸で名古屋か
らの下街道へ入った。柄石峠の茶屋については「宿から半時間歩いた峠の頂上は、茶
屋が目印になっている。茶屋にはその近辺で見つけた色々な化石や水晶が売り物とし
て並べられている。これらのうちの幾つかを調べている間に、我々の注意は黒っぽい
毛虫の群の珍しい行進に惹きつけられた。毛虫の奇妙な行動をもっと詳しく、ここに
いて調べられたらと思わせる程の規則正しさで、群れをなしてその辺りを這い回って
いたのである」(『JWM紙』)と書き留めている。


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