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画家 宮地志行
遺作展の記録


平成26年(2014年)9月13日~11月3日
長野県東御市・丸山晩霞記念館にて

「青雲画士」物語 太平洋に馳せる夢
若き日本人画家たちの冒険と浪漫
と、併設
「特別展示 宮地志行」
が開催されました。

丸山晩霞記念館 案内パンフレット
(表・裏)




(PDF・1MB)


 特別展示 宮地志行(みやちしこう)

 志行は太平洋画会、
日本水彩画会で学んだ画家ですが
45歳という若さで世を去ってしまったことから
ほとんど知られていません

 しかし、宮地志行の画業は
光をあてて輝くに十分な力量を備えています

 今回、遺族の地道な調査に基づいて
特別展示します




丸山晩霞記念館
(東御市文化会館内)

宮地志行の出展作品(12点)


 
宮地志行 自画像
志行の妻 光枝


 
椿
ストーブを焚く少女


 
藤椅子の少女-1
藤椅子の少女-2


 
椿
裸婦群像


 
窓辺の裸婦
半原(志行の故郷)操り人形浄瑠璃


 
読書
雪景色(雪の半原)絶筆(志行最後の作品)


 
展示会場にある説明

 宮地志行について

ある日「宮地志行宛てに丸山晩霞が
出したハガキを所有している
ので、関心があれば連絡を」という
電話があったと伝言を受けた。

連絡してみると、それはネット上でも
公開しているというので、
そのサイトを見てみると、
なるほど一枚のはがきがアップされていた。

それは印刷の賀状だったので、
私はそれほど関心が湧いたという
ことはなかった。 しかし、ほかにも
歴々の画家たちからの書簡やら
ハガキが公開されていて、
いったい宮地志行という画家はどういう
人物なのかと興味を持った。
そして志行の作品ページを見ると、
力量も可能性も十分に備えていたことが
分かった。

略歴を見れば、太平洋画会会友、
日本水彩画会においては
創立会員とあるので、
丸山晩霞と接点があったのは自然な
ことだが、惜しくも45歳の時、
結核で亡くなっている。

私は連絡をくれた、志行の孫にあたる
宮地完行氏にさっそく連絡し、
ハガキよりも志行の作品に驚いたことを伝えると、
しばらくして遺作を拝見できることとなり、
志行の生家のある岐阜県瑞浪市へと出かけた。
 
完行氏がコツコツと自分の祖父を
顕彰していることに、
私は頭の下がる思いがした。

これほどの力量を持ちながら早世し、
埋没している宮地志行にとって、
今年の企画展は、太平洋画会設立の
ストーリーそのものであるから、
会友で早世した無名の宮地を、
多少なりとも紹介することは
いい機会であると判断し、
小規模であるが展示することにした。

明治から大正期の油絵、まさにその匂いを放つ、
これらの作品は多くの人にはどのように映るのか。

(佐藤聡史 丸山晩霞記念館学芸員)


(展示の様子)

 

 

 



「宮地志行」特別展示について

丸山晩霞と関係があったことを示す
1枚の葉書から、宮地志行を知りました。

日本水彩画講習所に学び、
日本水彩画会の創立に参加、
また丸山晩霞以外にも当時の
重要作家らと交友があり、
特に岡精一に師事し太平洋画会
においては会友推挙を受け、
これからが期待されていた
存在であったと思われます。

45歳で早世してしまったため、
その画業は埋没しておりますが、
地道な調査を続けておられるご遺族に敬服し、
非力ながら光りをあてる仕事として、
特別展示をいたしました。

宮地志行のホームページはURLが変更になり、
今は
http://shikoh.g1.xrea.com/

図録 (PDF・6MB)
(A4版・8ページ・作品12点)


  
自画像
1921年 油彩 65.0*53.0
ストーブを焚く少女
1915年 油彩 91.0*64.0



藤椅子の少女-2
1929年 油彩 100.0*80.3
藤椅子の少女-1
1927年 油彩 117.0*90.0


 
読書
制作年不詳 油彩 136.5*112.5
光枝
1926年 油彩 52.5*40.0



窓辺の裸婦
1932年 油彩 91.0*116.5
裸婦群像
1929年頃 油彩 136.0*161.0



半原操り人形浄瑠璃
1930年 油彩 105.0*86.0


宮地志行は、郷土の
日吉村半原 (現岐阜県瑞浪市)の
「半原文楽」で上演された
人形浄瑠璃の保存にも努め、
人形の首はすべて志行の
製作によるものであったが、
志行の没後、火災によって焼失してしまった。

椿
制作年不詳 油彩 41.0*31.8
椿
制作年不詳 油彩 31.8*41.0




雪景色(雪の半原)
1936年(絶筆)
油彩 91.0*116.5
アトリエ外観(当時)


 
印刷されたURLは変更されています
現在はhttp://shikoh.g1.xrea.com/

 宮地志行略年譜
 1891年
(明治24)
 岐阜県土岐郡日吉村半原に生まれる。
本名景樹(かげき)。
父は小学校校長、 のち日吉村長。
 1909年
(明治42)
 岐阜県立東濃中学校
卒業と同時に上京。
岡精一に師事、高間惣七、
中村不折にも学ぶ。
洋画、水墨画、水彩画など
幅広く修業。
 1913年
(大正2)
 日本水彩画会創立に
宮地景樹の名で参加。
 1918年
(大正7)
 加知光枝と結婚。
 1923年
(大正12)
 東京と岐阜を
往き来する生活となる。

横山大観、下村観山、
石并柏亭のほか、
童話作家安部季雄、
沖野岩三郎、久留島武彦、
版画家小山良修、八木皎平、
作家横山美智子、大仏次郎、
林芙美子、北川千代とも
親交をむすぶ。
昭和初期よりラジオ雑誌・
時事新報・雑誌「少年」「少女」
「主婦之友」などの表紙、
挿絵を担当。
 193l年
(昭和6)
 母校の日吉第一尋常高等小学校
の改築・設計案を担当。
郷土の半原操り人形浄瑠璃
のための大道具・小道具等も
主なものは始ど志行の製作であった。
(昭和29年不慮の火災で焼失)。
 1930年
(昭和5)
 太平洋画会会友推挙。
 1933年
(昭和8)
 銀座の川島東京店にて個展開催。
 1936年
(昭和11)
 結核により死去。享年45歳。
 1961年
(昭和36)
 遺作展
(瑞浪市商工会館)。
 1994年
(平成6)
 遺作展
(瑞浪市総合文化センター)。
 2000年
(平成12)
 遺作展
(瑞浪市市之瀬廣太記念美術館)。
 2014年
(平成26)
 遺作特別展示
(丸山晩霞記念館・長野県東御市)



丸山晩霞記念館だより
第1号

2014年7月15日発行
PDFは、こちら

私の書いた記事(p3とp4)
「宮地志行のこと」


(p1/4) (p2/4)


(p3/4)


(p4/4)

 「宮地志行(みやちしこう)のこと」
 (寄稿文)

 志行は私の祖父だ。

私が生まれた時、すでに他界していた。
 東京の千駄ヶ谷に住み、
画業なかばで結核をわずらい慶応病院
で亡くなった。45 歳の生涯。
明治・大正・昭和の三時代を駆け
足で走り去った。

 幸い、志行の妻光枝は存命だったので、
私は志行のことを色々と聞いていた。
アトリエは岐阜県の山里の中、
優しい光の中に静かに建っていた。
室内には多数の遺作が置いてあり、
それを見ながら育った私は
今も絵画が大好きである。

 私の父は、出征と戦後の混乱の中、
とても志行の遺作を整理する余裕は無く、
私も仕事の忙しさを都合のいい理由にして、
暫く遺作は放置されていた。

 やっと私も数年前に定年を迎え、
山形村の私の現住居にも何か
絵を飾ろうと思い立って、
岐阜にある志行の絵を数枚持って来ようと
アトリエ(老朽化で取り壊し現在は倉庫)に
絵を取り出そうと行ったのだが
乱雑に積み重なっており、
出すことも出来ない。
そこで重い腰を上げて整理を始めたが
私の現住所から遠い為、未だ仕事半ばである。
 
 絵以外にも、色々出てくる、
そこでホームページを立ち上げ
発見された資料を掲載しながら
現在に至っている。

 世の中は不思議な縁で繋がっている。
資料の中に丸山晩霞が志行に宛てた
ハガキがあった。
私がホームページで丸山晩霞を調べていたら、
“ 晩霞に関する資料があったら連絡を”
という記述を見つけた。
早速に話した所、
とても丁寧な対応をいただいた。
佐藤学芸員だった。
運命の出会いだった。

 私は山が好きだ。
大阪の大学時代の夏休みに
石鎚山や北アルプスを歩いた。
山にのめり込み、大阪では信州の求人は
皆無に近かったが、卒業と同時に
アテもなく信州に引っ越し、
翌日から職安に行って
“ 山が好きで引っ越して来たが
何か仕事は無いですか”

粘って雇用促進住宅に入居した。

 信州の山々を描いた丸山晩霞の水彩画は
少しではあるが当時から知っていた。
山を見る目・山が好きで優しく見守る目は、
おこがましいが晩霞と私は
同じだと思っている。

 佐藤氏からは、寄稿するにあたり私に、
“ まとめられてこられた志行に関することを
綴っていただけるといい” 言われていたが、
私はいつも話が脱線する。勘弁願いたい。

 私の絵好きの為か、
今でもつきあう数人の
友人知人の画家がいる。

 私は作品などを紹介するホームページ
を作るのが趣味で得意なので、
会う度に、その友人知人たちに、
“ あなたの作品を紹介するホームページを
タダで創ってあげる、そうすれば
多数の人たちに見てもらえて、
記録にもなっていいじゃないが” と
勧めていた。

しかし、いつになっても、
彼等はあまり乗り気になってこない。

ある時、その中の親しい友人の一人に、
“ 何か、自分のホームページ良くないのかなあ”
と聞いてみた。

彼曰く、
 “ そうじゃない。絵を描く時は
夢中になって全て他の事は棄て置き、
気持ちを集中して一番いいものを
描こうと思って描く。
そして、その時は、良い物が出来た、
と思っていても数年経ち、
百枚以上も作品が出来て、今思うと、
当時は良いと思って描いた絵が
何と幼稚で恥ずかしい物か、
棄ててしまいたい絵が何十枚もある。
いつまでたっても、その繰り返しだよ。”
というのだ。

 私は、
“ 棄ててしまうなら、その絵を私にくれないか”
と、喉元まで出かかった言葉を、
ぐっと堪えた。

 私は思った。
 そうだ、誰もそうだ。
皆、前だけを見て未知の世界を知ろうと
描いている。

 作品を残そうとか、名を残そうとか、
そんなことを少しでも思ったら
絵は描けないものだ。
後ろを振り返った時、その人は進むのを
止めてしまうのだ。

 それからというもの、
私はホームページの話は出さない。
彼等も解っていて、
自由にやっている。

それでいい。

 きっと、志行もそうだった、と思う。

 志行の故郷の古い人に
伝え聞いたことがある。

 志行は子供のころ、
いつも棒切れを持って、
地面に絵を描いていた。
それが友達や村の人たちに人気で、
彼は喜んで何でも描いているのが
遊びの様なものだった、と。

 作品がどうのこうの、
ということは後々の人がやればいいことだ。

 志行は、好きなだけ絵を描いて逝った、
と思っていたい。

 (宮地完行)

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