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画家 宮地志行の記録

昭和14年(1939)3月4日
東濃新聞



写真は宮地けい(志行の母)
  (記事抜粋)

 白いアトリヱの窓から北に奔る
木曽の峰を眺め神の如く
静かに絵筆を運ばせた高原の画人・・・
お伽噺「コドモエホン」で有名な宮地志行画伯が
逝きて三年・・・以来椋の木に囲まれた奥山で
毎晩御燈明を捧げて有りし日の俤を忍ぶ
親子に始めて喜びの春が訪れた。

 本誌「夜明け前の農村」で
知られ出した土岐郡日吉村の
高原山坂十町登り続けたところの半原という
一部落に椋の木で囲まれた
一軒の農家・・・・・この小高い丘には
窓の風変わりな「ホワイトハウス」がある、

 これが童画家として第一人者の宮地志行画伯の
実家であり白い家がアトリエである、
宮地氏は東濃の生んだ童画家であり
漫画家として有名な可児郡の
田中比佐良画伯と供に
将来を期待されていたが不幸昭和10年3月より
悪性な関節炎となり身体の自由が利かず
同11年10月ついに46歳で死亡した、

 宮地画伯は「優良コドモエホン」の苦心作者
として子供達の品性の美化に全力をつくし、
芸術的教育や情操教育の立場から
世に残した功績は
実に大なるもので今なお残る桃太郎さん、
サルカニ合戦、動物園、イソップ、
青い鳥は広く知られた傑作絵本であるが
宮地画伯は童画家であるのみならず
沢山の洋画(人物、静物、風景)をも書いていた、

 この洋画は世に出さず
一般には知られていなかった
ところが実家の白い家には画伯が
東京世田ケ谷の住宅地から時々山へ帰り
一心に画き残した作品が百数十枚あり
未完成のものも沢山ある、
これを最近東京で審査を受けたところ
傑作であることが判り
早くも各地から売却を紹介する者が沢山出て来た

 画伯が静かな山の中で丹精こめた
「或る夫人」・・・・・「裸婦」
「秋の谷間」「寒い朝」
「畑の女」・・・・・等が
三十畳敷のアトリエの中に積み重ねてある、

 これらの名画が
始めて世に出ることになったので宮地一家は
大喜びで故人の残した苦心の作品を
手入れ中である
記者は高原のアトリエを訪問した
喜んで迎えてくれた未亡人君枝(41)さんは語る

 私の一家は祖母けい(67)長女伸枝(21)
長男完自(17)の四人家族です、
夫は本名を景樹と言いますが画号は志行です、
明治42年に東濃中学を卒業、
太平洋洋画研究所に入り勉強しました、
東京の中村(不折)先生を始め高間(惣七)、
安倍(季雄)、丸山(晩霞)、
藤島(英輔)先生には
一方ならぬ御恩を受けています、

 夫は美しい絵上品な絵は
子供の品性を美化する上に必要なる絵の
教育であると日頃語って
子供の絵本、作文を好んでやりました
暇があれば講談社、主婦之友、
その他色々の雑誌にも挿絵を出しました
人物画も時々画き
大島大将(大島久直陸軍大将1848-1928)
のお顔を書いています、

 都会で疲れると山の頂上の半原へ帰り
一生懸命私や子供を
モデルにして書いたものです、
村の小学校と渡辺徳助さんの所に
五枚位寄贈してあると思います、
中途で世を去り夫の念願達成の
出来なかったことを残念に思っています

 なお郷土が生んだ宮地画伯の
傑作品を広く世に紹介するべく
本社多治見支局並びに
東濃中学校校友会有志主催で
近かく大々的作品展覧会を開催するべく
目下計画を進めている

 (写真は故宮地画伯と最後の作品「雪の路」、
 未亡人君枝さんと愛娘伸枝さん)



昭和26年(1951)
(日付と新聞社不明)



 写真はアトリエと宮地画伯
  (記事抜粋)

 洋画家でまたサシ絵画家として有名だった
宮地志行画伯が他界して十六年、
土岐郡日吉村半原の傍らに建つアトリエには
いま百余点の遺作が埋れていることを
伝えきいた水野一好画伯
(多治見工業高校校長)が
近く遺族をたずねたうえあっせん役となり、
出来れば遺作展をひらいて
故人の霊を慰めたいという、
これは美術の秋におくるエピソード。

 故宮地画伯は日吉村半原の
名もない峠の頂上近くの
農家の独り子としてうまれ東濃中学を卒業、
直ちに上京して研究所に入り、
のち太平洋画展に属し洋画とともに
サシ絵画家として研賛をつみ、
国定教科書のサシ絵を描いた。

サシ絵の数は多いが、とくに印象的なのは
楠正成、正行父子の別れの場面、
童話の桃太郎鬼退治、サルカニ合戦など
当時の子らに親しまれたものだ。

 画伯は主に東京に居住したが生家の傍らに
約十坪のアトリエを造り
時折り帰郷して制作に当たり
君枝夫人や一女伸枝さん
(現在同郡瑞浪土岐町歯科医市川義雄氏夫人)
をモデルにして裸婦を得意としたが
四十六歳のとき一男一女をのこして他界した。

遺作の小品は多く散逸したが
現在40号から150号までの
大作を主として百余点が保存されている。

 アトリエはチリ一つとどめぬまでに整理され
君枝未亡人(52)はいまもなお亡夫を想い労働に
疲れたときはアトリエに憩って
静かにめい想にふけるという。

 わびしき峠、冷たい風のわたるススキに
囲まれた画室で君枝未亡人は
“裸婦のモデルは私と娘だけでした。
娘も絵がすきで画家志望でしたが・・・・・”
と思い出を語り、老母けい刀自(79)は
“せがれは五つ六つのころから
絵筆をとりました。
どんなに絵が好きだったか・・・・・”
と故人をしのぶのだった。

かくてさみしき山の画室にも
春が訪れようとしている。

 水野一好画伯談
宮地画伯はサシ絵画家として有名でした。
一度遺作をみせていただき埋もれているものを
世に出してあげたいと思います。

  (以上)

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