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画家 宮地志行
遺作展の記録


昭和36年(1961年)3月11日~13日に、
瑞浪市の商工会館階上ホール
(当時、瑞浪駅前にあった)
にて「宮地志行遺作展」が開催されました。
そのときの紹介文が
2011年に見つかったので掲載します。

(以下、原紙はB5サイズ 縦書き)


 


宮地志行画伯について


宮地画伯は、本名を景樹と言い、
明治二十四年七月文一氏(元、日吉村長)
の長男として日吉町半原に生る。

幼少より絵に長じ、御嵩中学校卒業と同時に
両親を説得して単身上京、
フランスより帰朝直後の、岡精一画伯(故人)
の門下に入り横山大観、
下村観山画拍とも知り、
大平洋画会(現美術会)会員となる。

その後、次いで高間惣七画伯(独美会)
中村不折画伯(故人)と
日本画壇の重鎮に師事し、
この間NHK、ラヂオ雑誌、時事新報、
雑誌「少年」「少女」を初め、
「主婦の友社」「興文社」の挿絵を執筆、一方、
阿部未雄(童話家) 作家、横山美智子、
大仏次郎、林芙美子氏等と親交あり。

大成を目され乍ら、
昭和十一年十月東京慶応病院にて
四十四才の若さで惜しまれつゝ逝く。

東京での個展以外、
同画伯の作品は殆んど発表されて居らず、
今回の遺作展の作品は、
初めて公開されるものばかりである。

昭和三十六年三月
宮地志行違作展運営委員会


岡精一が宮地志行の妻君枝(光枝)に宛てた
遺作展の案内
(政治公論2323号・昭和36年2月25日発行)




 


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宮地志行氏の遺作展が開かる
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岐阜県瑞浪市日吉町半原の故宮地志行氏の
遺作展が三月十一日から三日間にわたり
瑞浪市商工会館において
開催されることになった、

宮地画伯は本名を景樹といい大正時代から
昭和時代の初期にかけて中央の洋画界で
ご活躍され大成を期待されていたが
昭和十一年十月に四十四才の若さで逝去された、

東濃中学校を卒業して上京し岡精一画伯の
門下としてこの道にはいり横山大観、
下村観山画拍らとも知りあいになり
その後は大平洋画会会員として
NHKラヂオ雑誌、時報新報社をはじめ
当時の少年少女雑誌、主婦の友など
巾のひろい活躍ぶりをされていた、

また昭和の初めころから独立美術の
高間惣七画伯や中村不折画伯
にも師事され初期の写実的で細かな画風から
次第に大胆な色、構図の絵をみるように
伸展された、

なお出身地にもアトリエを設けて
君枝夫人や家族らをモデルにして
制作に務められ
大仏次郎、林芙美さんら当時の作家と
親交もあったということである、

同画伯の作品は東京での個展以外は
殆んど知られおらずその作品百余点は
君枝未亡人が手をこめて
完全保存されてきたのである、

こんど瑞浪市教育委員会の渡辺俊典主事らの
奔走により遺作展の開催への運びとなった
同画伯は私(宮地利夫)は同郷であり
大先輩として仰いでいただけに今回の遺
作展に賛意と慶祝を表しております。


同じく3月14日の政治公論誌に
展示目録が掲載されている。

政治公論社の
宮地利夫は宮地志行と同郷である





自画像=大正11年・36才のとき半原で画く

婦人=大正13年・夫人をモデルに
画いた代表作の一

裸婦=昭和2年・終わりに近いころのもので
代表先の一、半原にて画く

清流=晩年の作の一で釜戸町の
白狐(びゃっこ)温泉にて画く

町の娘=大正3年・東京で
岡精一画伯の門下のとき画く

風景=昭和9年8月・日吉町の深沢峡にて画く、
遺作のうちもっとも最後の作で
この画風における代表作

椿=大正15年・東京にて画き
画伯の愛せしもの

ダリア=大正8年・29才のとき半原にて画く

椿=昭和2年・半原にて画く、画伯の愛せし作

房州の海=31才のときの作で
画伯の好みの画風の一

浅草の娘=大正5年・東京にて画く、
青年時代の代表作

晩秋=大正8年・半原にて画く

清流=大正8年・長野県の田立の滝にて夫人を
モデルに画いた代表作

半原文楽=昭和8年・半原にて画く

古陶器=大正15年・
この画風の充実した作の一、
半原のアトリエで画く

花=昭和7年・半原にて画いて
画伯の愛せしもの

夏=昭和8年・画伯の数少い画風の一

少女=大正4年・東京で画いた
青年時代の代表作

静物=昭和8年・東京の朝間惣七画伯の
アトリエで画いた代表作

古陶器=大正10年・半原のアトリエで画いた作


なおこの展示会には宮地画伯の叔父である
宮地美一の秘蔵される日本画も十数点が
協賛展示されて一そうの華を添えられていた、
この宮地美一氏は終戦まで東京におられ
志行画伯が上京されて画界に入られたのも
この美一先生を頼って
東京に行かれたのであった、
よき叔父、よき先輩、
よき理解者として志行画伯を
導かれた人で画伯が
慶応病院でなくなられるまで
何かと力にされたのも
この美一先生夫妻であった、
美一先生は東京で観画の権威者として名あり
観画専門家で瑞浪市に帰られ今なお遠くから
先生のもとへ教えを乞うものが少なくない
ということである、
協賛展示された日本画は
国内でも得がたい有名な一幅一幅である。

(宮地利夫)

(しかし同年11月の展示会の後、
美一の展示出品した画は全て紛失してしまっており、
その経緯を調査しているが、今なお不明である)

(不明品)狩野芳崖 ダルマの図
渡辺崋山 孔明ひもとく軍書の図
ほか一点の日本画名幅



<展示会の時の新聞記事>










其の後、
昭和36年(1961年)11月25日~27日に、再度、
瑞浪市の商工会館にて
「宮地志行画伯遺作洋画展」が開催されました。

<展示会のときの掲示物>








<この時の新聞記事>
 

 
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